一本杉通り かわら版
一本杉通り観光 | 2009年4月22日
所在地は七尾市馬出町だが、正門は一本杉通りに向いており、一本杉町の仕出し料理・宅蔵と中谷内陶器店の間の通路が入口になる。
開基は、あの勧進帳で有名な第12代冨樫左衛門尉泰家入道仏誓の孫で、冨樫左衛門利信である。乾元元年(1302)に金沢の木越の地に創建した。この冨樫利信は文永11年(1274)に比叡山で天台宗の僧侶となり宗性の名乗った。
宗性は76歳で浄土真宗の第3代覚如上人に帰依され、帰国にあたり恵信僧都(源信)自作の阿弥陀如来像と親鸞聖人御自筆の六字名号を拝受して木越の房舎を建立した。
(「出会いの一本杉」には「恵信」とすべきところ「専信」となっているがミスプリである。恵信僧都は天台宗の僧侶で『往生要集』3巻の著者として知られ、親鸞が定めた七高僧の一人で第六祖である)
第7代光徳寺の住持・現道が加賀一向一揆の大坊主として活躍、長亨2年(1488)、加賀国領主富樫正親を滅ぼし(長亨の一揆)、「百姓の持ちたる国」を実現した。
加賀能登一帯に浄土真宗が強いのは、蓮如上人が吉崎御坊(福井県の石川県との県境にある)に来られて布教したのでこの地方に深く教線が広がったようだ。
蓮如上人はその後は山科本願寺で念仏の布教にあたられた。加賀一向一揆が起こった際には、その指導者であった木越の光徳寺が吉藤専光寺とともに蓮如上人から「お叱り御文」を送られている。それは今でも光徳寺に残っているそうだ。
その後、天正8年(1580)織田信長から一向一揆平定の命令を受けた越前北の庄城の柴田勝家は2万の大軍を率いて加賀に乱入。木越光徳寺でも一向宗と織田軍との間で大合戦が行われた。その時、光徳寺十一世・賢明が殉死した。
死を免れた衆徒らは、たった二歳の光徳寺の跡継ぎの子抱えて、黒島(現・志賀町黒島)に落ち延び、そこの蹴落山に房舎を建てた。
後に海岸近くで、風波が激しく幾度も水害に遭ったので、慶長6年(1601)に、鹿島郡府中村違堀(現・七尾市府中町違堀)に移った。同年に利家から能登三郡(羽咋郡、鹿島郡、鳳至郡)の触れ頭を命ぜられた。そして江戸も末の天保12年(1841)にさらに移転を行い現在地になったそうだ。
毎年11月3日は報恩講(浄土真宗の場合、宗祖親鸞への報恩謝徳のために行われる法会で親鸞の忌日の前後などが多いが、光徳寺では11月3日となっている)。その際は、門前町である一本杉通りに大市「七尾秋の大市」が立ち、露店が立ち並び沢山の人出が繰り出す縁日となっている。
開基の宗性こと俗名・冨樫利信などは冨樫という最初の姓を「冨」を用いて書いたが、昔は「冨樫」と書いたようだが、現在の住持の姓は「富」の字を用いているようだ。
光徳寺会館所蔵の主な法宝物は次の通りである。
●親鸞聖人御自筆の六字名号
●恵心僧都(源信)自作の阿弥陀如来像
●親鸞聖人御影
●十五僧連座像
●蓮如上人自筆の「三帖和讃」
●親鸞聖人絵伝 4幅
●聖徳太子御影
●七高僧御影 など
これらの法宝物だが、いきなり観光客が訪問しても見せてはくれないと思われる。
境内に入るのは問題ないが、寺では本堂及び光徳寺会館に勝手に入ることを禁じている。入りたい場合は事前に(当日ではなく少なくとも1、2日前に)連絡し、住職に了解をとることをオススメする。
光徳寺
住所:七尾市馬出町ツ35 ℡(0767)53-0555
(参 考)
この記事を書くにあたっては『石川県大百科事典』などや歴史書も当って調べたが、県の郷土史関係者の見解などと寺伝では少し異なる点も多い。結局内容のほとんどは「出会いの一本杉」の小冊子に従ったが、一部『木越山光徳寺七百年史』に基づき訂正した。各本に見解などの相違もあるが由緒深き名刹であることには変わりはない。