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立命館大学創立者・中川小十郎が一時住んだ町、一本杉町

ゆかりの芸術家・有名人 | 2010年2月18日

立命館大学創立者・中川小十郎が一時住んだ町、一本杉町

この中川小十郎氏(1866~1944)が一本杉町にやってきた経緯は次の通りである。

中川小十郎翁 明治10年頃、当時御祓川の長生橋たもとにあった浄土真宗大谷派七尾教務所(現在は小丸山大通りにある能登教務所)に、佐賀県生まれの医師・田上綽という先生が経書や詩文を教えるためにやってきていた。田上氏は、山雪と号し、湖南の号も用いた。草場佩川派の学者で画の楽しみもあり、通な文人肌な人であったらしい。

 教務所では、田上氏を中心に詩会の催しもなされたようだ。横川巴人の父親・横川仲蔵(俳号は春水)も、医師であり文化人でもあった。それで横川仲蔵氏が田上氏に病気手当を頼んだのを契機に詩文などを語り合う仲間となったらしい。

 この田上氏には学僕ともいえる十数歳の少年2人が同行していた。その中の1人が、若き日の中川小十郎氏(当時14歳)だった。仮住まいにしていた所は、一本杉町の船城甚右衛門方で、船城氏は酢・味噌・醤油の醸造を家業としていたらしい。文人タイプの人柄で能登や金沢の旧家と付き合いがあり、書画の売買の世話もしていたという。そんな世話好きな性格から中川氏を預かったのではなかろうか。

 中川氏が七尾にいた期間は、はっきりしないが、この元ネタが書かれている「七尾の地方史」を読むと、そんなに短くもないらしい。1年ほど住んでいたようだ。
 ただしこの船城家が現在の何処に当たるかは、私としてはまだ調査不足で詳細不明である(知っている方がいれば教えて欲しい)。明治28年、38年の大火で、一本杉町は2度ほぼ全焼したそうだから、恐らく燃えたと思われる。

 昭和10年代のはじめ頃、中川小十郎翁の晩年に、一度横川巴人氏は京都の中川邸を訪問した。その際、中川氏は文箱に入れた師・田上先生の文稿を持って一本杉の横川宅へ度々使いに言ったものだと七尾時代を回想したという。

 また後に中川小十郎氏から横川巴人氏に手紙が送られてきたという。手紙には、
「昔年ノコトドモ追憶感無量ニ存ジ候。当時私等ノ寄寓致セシ家ハ一本杉町ノ船城甚右衛門ト申ス仁ノ家ニ候。小生当時十四歳ノ少年ニ候。今日尚昨日ノ様ニ思ハレ候。貴賢姉殿ニモ宜敷(よろしく)オ伝ヘ下サレ度候(たくそうろう)。本日手許有合ハセノ人形ヲ貴宅宛ニテ差シ出シ申候(もうしそうろう)。貴姉ヘお届ケ下サレ度候。」とある。

 文中の貴姉殿とあるのは、巴人の異父姉の中村多仁という女性で、多仁は横川家から、明治の七尾の漢学者・中村立軒の息子に嫁いだそうだ。七尾教務所の少年ら二人と多仁少女とは隠れん坊などしていた遊び友達だったそうだ。その他にも船城甚右衛門の姪だった「のっぽのおよねさん」と渾名(あだな)された娘も当時の中川氏の遊び仲間だったらしい。
 
 小十郎の晩年になってからも、二人の女性や巴人のもとに、七尾を懐かしむ手紙などを送ってきたそうだ。
 詳しい事を知りたい方は、もし七尾市内の方なら、この記事の下記の元ネタにあたる本(七尾市立中央図書館所蔵)に書いてありますから、そちらを読んでもらいたい。
【参 考】
 「七尾の地方史」第23号(平成元年11月)(「七尾地方史の会」発行)
    中川小十郎と七尾の女性 (横川敬雄)  P34~36 

 



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