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七尾の名工 吉田屋喜兵衛

ゆかりの芸術家・有名人 | 2010年2月21日

 七尾の名工 吉田屋喜兵衛

 横川巴人さんの著書『夢』の中に、今回と同じタイトルの一節がある。よって元ネタはそこからである。
 この名工・吉田屋喜兵衛は一本杉町に住んでいた。
 巴人氏もこの名工の話は、当時(昭和29年7月)小丸山公園下に住んでいた一番上の姉から聞いたもので、巴人氏は興味を持ち、色々調べてみようとしたが、思わしい結果は得られなかったようだ。

 巴人の姉の話によると、横川家(現在の二穴理容店向かい側の松本呉服店駐車場のあたり)の向い側、一本杉通りの山側の西よりに、二間口位の店屋で堂宮彫物(神社寺院山門の彫刻をやる人を一口に堂宮彫りといった)をやる吉田屋という家があったそうだ。増屋毛糸店があった辺りだというのだが、以前毛糸店をやっていた八木さんの家の辺りだろうか(知っている人がいたら教えて欲しい)。
気多本宮拝殿
 兄弟でやっている店で、兄弟共に彫物師で「弟の文吉は後に愛宕山(近くの小丸山公園内の愛宕山)下に世帯を持ったが、仕事は兄の所でしていた。色白な中背の男で凝り性な職人気質の嗜(たしな)みもあった。兄の方は吉田屋とのみで名は知らないがその子に虎年生れのトラマというのがいて遊びに宅(巴人の家)へ来た。」

 彫刻関係の家では、七尾では吉田一雋氏に始まる家系が有名だ。子孫からも吉田秀鳳氏、吉田雪山氏、吉田昇氏、吉田隆氏と沢山の彫刻家を生んでいる。しかしそうもその吉田家とは血縁関係にないらしい。

 巴人さんも、その吉田家の親戚かと思い、吉田一雋氏に直接聞いたそうだが、吉田一雋氏は「成程同業だが彫刻のところでは私が初代で家との縁故も全くない、しかし先輩から一本杉に吉田家という堂宮彫りの名人がいたという話は聞いており、どの辺にいたのかと思った。その人の作品は、気多本宮の御拝上の彫刻であるが、若い時から見飽きもせずに見に行ったものだ」という話だった。

 それから以前同じ人の作品と思われる作品が、明願寺が今の七尾商工会議所の所にあった頃、その山門の扉に刻まれていたらしい。内容は※黄石公と張良の故事を刻んだものだったそうだ。明願寺は明治の30年代前半に国分に移転、ただし山門は明治35,6年頃まであったが、売られたそうだ(明治38年の大火で焼失したという説もあるらしい)。それで現在はどこかにまだあるのか、それとももう無いのか不明である。

 気多本宮の棟札では、本宮の拝殿は慶応元年から明治元年の足掛け4年の造営と知られるそうだ。資料が殆ど残っていない吉田屋喜兵衛だが、ただし戸籍だけは思いがけず残っていたらしい。「戸籍で見ると喜兵衛は慶応元年で31才である。・・・・慶応2年正月21日に父死亡に付同年3月10日相続す」と記録にあるそうだ。

 巴人は続けてこう書く。
 「棟札の慶応元年5月5日竜と特筆し作人吉田屋喜兵衛名を出し、右端に明治元年秋と神宮名を記したところに深甚の注意が払われているとみなければならぬ。
 つまり明治元年の棟札で竜の作者は二年前に歿した先代喜兵衛の作であることをことわったものである。してみると吉田屋家職は彫刻師だが、名工喜兵衛は初代かどうだかわからぬ。
 私の姉の話の吉田兄弟の兄は棟札にある麒麟の作者吉田喜三郎(前記31才)で(明治29年北海道小樽で62才で歿)弟の文吉は当時22才で棟札から逸している。
 鳳凰の八幡喜助は弟子だろう。さて名工喜兵衛が歿した年令は戸籍になく妻のトキが文化11年生まれの喜兵衛歿年には52才だから5つ6つ年上か60才かと想像するのだが、本宮の竜は彼の心血を灑(そそ)いだ最後の作品だったのだ。」

 巴人の文章は、想像すれば分かる内容は省略する癖があるので、ちょっと慣れないと読みにくいというか理解しにくい点もある。それでもじっくり読めば大体わかる。
気多本宮拝殿の龍の浮彫りのアップ写真

 この話の中では、先ほど述べた吉田一雋の他、同じく七尾が生んだ名彫刻家といってよい田中太郎氏の二人が、気多本宮の竜の浮き彫りを評して、名人芸だと絶賛している話も記されている。
 その中から吉田一雋の評を少し抜粋すると
 「自分は東京浅草観音の境内の経堂や上野の寛永寺、日光陽明門の竜などの名物を旅でも注意して見たが、堂もキャシャなものが多く神秘壮厳さがなく、本宮の吉田屋さんの竜は名人芸だと思った。」

 現在、彼の他の作品が見当たらぬのは誠に残念と言わねばならない。

黄石公と張良について(Wikipediaの「黄石公」から引用)
 黄石公(こうせきこう,生没年未詳)秦代中国の隠士。張良に兵書を与えたという伝説で名高い。
張良が始皇帝を暗殺しようとして失敗し下邳に身を隠していたある時、一人の老人と出会う。老人は沓を橋の下に落として、袂を歩いていた張良に「拾え」と命じ、張良は怒らずそれに従った。老人は一度は笑って去ったが、後に戻ってきて五日後の朝に再会を約束した。
 五日後、先に来て待っていた老人は、日が昇ってから現れた張良に「目上の者との約束をしておきながら遅れてくるとは何事か」と、また五日後に会う約束をする。張良は次の五日後、日の昇ると同時に約束の場所へ行ったものの、老人は既に来ていて以前と同じことを言う。三度目には日の昇る前に行くと老人は後から来て、「その謙虚さこそが宝である」と言い、張良に「太公望兵書(六韜)」を与え、「この書を読み10年後には王者の軍師となるだろう」と告げる。さらに「13年後にまた逢おう。済北の穀城(山東省東阿県)の下にある黄色い石が私である」とも。黄石公の予言はすべて的中し、張良は、穀城の黄石を得て、これを祀ったという。
 黄石公は太公望と伴に兵法の祖として仰がれ、その名を冠した兵法書の種類は多く、中でも『三略』が有名である。

 



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