一本杉通り かわら版
ゆかりの芸術家・有名人 | 2010年2月22日
七尾市馬出町出身の作家・藤澤清造 (1889~1932)
先月の末、藤澤清造の「清造忌」が七尾市小島町・浄土宗西光寺で営まれた事が新聞に載っていた。
一本杉通りに出身の人物ではないが、一本杉町から近いので採り上げることにした。
生れたのは、明治22年(1889)で鹿島郡藤橋村。現在の七尾市馬出(まだし)町である。
18歳の頃文筆家を志し、姉を頼って上京。印刷屋、製本所、新聞配達、製綿所、弁護士書生などを様々な職業を経験したが、間もなく俳優を志望するも叶わず悶々としていた。
やがて、同郷(馬出町)の作家志望の安野助多郎によって徳田秋声や室生犀星と知り合う。
徳田秋声の紹介で三島霜川が編集主任をしていた演芸画報社に入社、訪問記者となり、10年間の演劇記者時代を送った。そして仕事をしながら、小山内薫に私淑し劇評も書いた。
画報社を退社後は、小山内の紹介で松竹キネマやプラトン社に勤務するが長続きしなかった。
大正11年(1922)大阪に移って書いた、友人・安野助太郎の悲惨な死をテーマとした長編小説「根津権現裏」の出版によって文壇に登場。
ところでその安野だが、彼は金沢生まれで、若い頃は兄と一緒に七尾へ移住し兄は馬出町で理髪業をやり、弟は裁判所の給仕などをやっていた。藤沢とはその時知り合ったようだ。安野は上京後、弁護士の事務員書生などやっていた。
この安野助太郎と藤沢清造と、それに室生犀星の3人は親しく東京でもよく交わったという。安野が亡くなったのは斉藤茂吉の脳病院の便所で縊死を遂げた変死だった。
この事件を題材にして、藤沢は、「根津権現裏」を書いたのだが、その後は『新潮』『文芸春秋』『文芸往来』などに小説戯曲を発表。彼の作品は、もっぱら人間の醜悪な面、悲惨な面を描き続けた。晩年になるにつれて無政府主義的傾向が強くなっていったという。
上記のように劇評や戯曲により一時は「演劇界」で活躍したが、寡作のために生活に困窮。
貧乏にも関わらず頻繁に悪所通いなど生活は乱れ、昭和6年(1931)5月の『文芸春秋』で「此処にも皮肉がある」を最後に文筆を絶った。
悪疾の精神障害(どうも悪所通いが原因らしい)をきたし、何度も失踪を繰り返したという。翌年の昭和7年1月29日、行き倒れとなって東京芝公園で凍死した。享年42歳。
発見当初は手がかりがなく、行路病死人として扱われ火葬されたが、靴に打った本郷警察署の焼印が放送局の久保田万太郎氏の耳に入り、藤沢であると確認された。
小説家としては、『根津権現裏』が唯一の単行本であるが、大正期の人生派文学の作家と位置づけられる。
横川巴人(七尾市一本杉町出身)は、この作品に大しても結構酷評で「内容もひどく藤沢の性癖から出た文脈で、一口に言えば自然派風の私小説というものだから、広く読まれる通俗性がなかったともいえる。」などと書いている。
藤沢清造は、一般には有名ではないが、文壇で「ダラ言葉」を流行らせたり、文壇の著名人を誰彼問わず訪ね周り、当時文壇では一種名物男であったという。
交友した者の中には、郷土を同じくする室生犀星、徳田秋声、尾山篤二郎(金沢出身の歌人・国学者)、横川巴人の他に、北原白秋、今東光、久保田万太郎など著名な作家なども沢山いたようだ。
だがその一生は極貧の人生でもあった。彼の極貧の生活の有り様は、横川巴人の『夢』などにも書かれている。
昭和28年(1953)7月最初の追悼法要が西光寺で営まれた。墓標は質素な木でできたもので、尾山篤二郎が書き、吉田秀鳳(七尾市出身の彫刻家)が刻って有志の手で行われたそうだ。亡くなってから21年経っての法要であった。
2006年、清造研究家で作家の西村賢太氏の自伝的小説『どうで死ぬ身の一踊り』が、第134回芥川賞の候補作に選ばれるが惜しくも受賞を逃した。また西村氏は、藤澤清造の全集の編集も個人的に進めており、その激烈な私小説『どうで・・・』の中で、主人公に繰り返し強い共感を語らせてきた。
西村氏のお陰で久々に「知られざる作家」藤沢清造の生涯に注目が集まった感がある。
今年も行われた清造忌は、昭和28年に営まれた追悼法要を、その西村氏が平成13年(2001)に復活させた法要で、以後毎年西光寺で行われているようだ。
《参考図書》
横川巴人『夢』(横川巴人会 昭和44年11月発行)
『石川県大百科事典』(北國出版社) 他ネット検索など