能登・七尾市・一本杉通り。h24年度振興会が10年間の街つくりに対し、第6回ティファニー財団賞・伝統文化大賞を受賞。

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一本杉通り かわら版

一本杉通りはいつ頃出来たのか?

一本杉通り今昔 | 2009年2月16日

 一本杉通りが出来たのはいつ頃だろうか。
 以前、この辺の事を調べて小生の店のHPにも書いたが、ここにも記す。

 一本杉町という地名が最初に、書類で出てくるのは、元和2年(1616)の所之口町絵図である。そこには「一本杉どをり」とみえます。

 同じ地図には、他にも、府中町、大手町、味噌屋町(現在の亀山町の通りで亀山町と、生駒町と大手町の一部)、米町、豆腐町(現在の生駒町のあたり、一本杉通りの一部をなす町)、竹町(三島町)、かわや町(現在の木町)、大工町、作事町、桧物町、塗師町、鍛治町、馬喰町、新町(現在の阿良町)、川原町、魚町、中小池町の合計18町が書かれております。また長生橋、泰平橋、仙対橋(一本杉通りに西端に架かる橋)も書込まれています。

 といっても一本杉は、元和2年に成立したわけではない。地図に書かれていたということは、その時既に成立していたということである。
 前田利家の能登入国以前に、それまで気多本宮が建っていた小丸山の丘の麓には何かしらの集落は以前から出来ていただろう。
 が、改めて町割が行われたのは、おそらく前田利家が七尾にやってきてからだろう。

 利家は信長から天正9年(1581)8月17日能登一国を拝領すると、畠山氏が築いた山城の七尾城を捨て、交易に便利な所口の湊に近い小丸山に平城を築くことを決意。天正10年(1582)正月に利家は、片山延高や村井長頼に、城の外廓の壕堀を命じ、築城を開始。

 利家の越中転戦から後は、利家の三兄の安勝が築城工事の督励と兵站を担当。おそらくこの時分から町割りも行われいったのだろう。利家は尾山(金沢城)に居城を移してから、能登国支配の拠点として城代を置き、安勝はその七尾城代として能登の治世に貢献したようだ。

 2代目の七尾城代は、安勝の子・利好、3代目城代は利家の三男修理知好。知好は大坂冬・夏の陣の後、元和2年(一本杉通りの名が初登場する地図の製作年)に京都へ出奔。
 その前年(1615)に一国一城令によって城代も廃止されていたので、以後七尾城代の職責の主要部分は所口奉行に委ねられた。
 よって天正10年以降、元和2年までの35年間、3人の七尾城代の誰かの時期に、一本杉通りは出来たのであろう。

(参考)「図説 七尾の歴史と文化」(七尾市)

 



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