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一本杉町という地名が最初に、書類で出てくるのは、元和2年(1616)の所之口町絵図である。そこには「一本杉どをり」とみえます。
同じ地図には、他にも、府中町、大手町、味噌屋町(現在の亀山町の通りで亀山町と、生駒町と大手町の一部)、米町、豆腐町(現在の生駒町のあたり、一本杉通りの一部をなす町)、竹町(三島町)、かわや町(現在の木町)、大工町、作事町、桧物町、塗師町、鍛治町、馬喰町、新町(現在の阿良町)、川原町、魚町、中小池町の合計18町が書かれております。また長生橋、泰平橋、仙対橋(一本杉通りに西端に架かる橋)も書込まれています。
といっても一本杉は、元和2年に成立したわけではない。地図に書かれていたということは、その時既に成立していたということである。
前田利家の能登入国(天正9年(1581))以前に、それまで気多本宮が建っていた小丸山の丘の麓には何かしらの集落は以前から出来ていただろう。 畠山時代の頃から、七尾には城山麓の辺りから、所口湊や府中屋敷にかけて、一里にも亘(わた)って連なった街並みがあったといわれ、一本杉通りのあたりも人家があったことは十分考えられる。
が、改めて町割が行われたのは、おそらく前田利家が七尾にやってきてからだろう。
利家は信長から天正9年(1581)8月17日能登一国を拝領すると、畠山氏が築いた山城の七尾城を捨て、交易に便利な所口の湊に近い小丸山に平城を築くことを決意。天正10年(1582)正月に利家は、片山延高や村井長頼に、城の外廓の壕堀を命じ、築城を開始。
利家の越中転戦から後は、利家の三兄の安勝が築城工事の督励と兵站を担当。おそらくこの時分から町割りも行われたのだろう。利家は尾山(金沢城)に居城を移してから、能登国支配の拠点として城代を置き、安勝はその七尾城代として能登の治世に貢献したようだ。
2代目の七尾城代は、安勝の子・利好(としよし)、3代目城代は利家の三男修理知好(ともよし)。知好は大坂冬・夏の陣の後、元和2年(一本杉通りの名が初登場する地図の製作年)に京都へ出奔。
その前年(1615)に一国一城令によって城代も廃止されていたので、以後七尾城代の職責の主要部分は所口奉行に委ねられた。
よって天正10年(1582)以降、元和2年(1616)までの35年間、3人の七尾城代の誰かの時期に、一本杉通りは出来たのであろう。
明治30年頃 木構造二階建(腕木構造)
明治末の大火以前の伝統的な七尾町屋の風情を伝えており、内部の吹き抜けに見る骨組みや雰囲気など保存状態は良好である。
明治37年頃 木造二階建(腕木構造)
明治38年の七尾の大火を免れた数少ない建築物であり、伝統的な腕木構造を伝える典型的な七尾町家である。
明治37年頃、回船問屋であった津田嘉一郎が別宅として建築。後に弁護士北林弥三次郎が購入し、弁護士事務所を開設する。昭和8年、子息敏雄が北島屋茶店を創業し現在に至っている。
昭和7年頃 木造二階建 (看板建築)
年筆の形態を造形化したユニークな外観を持った看板建築。創業者上野啓によるデザインと伝えられる。昭和初期の七尾における近代建築の象徴的な建物である。
昭和7年、金沢で万年筆の修業を終えた上野啓が万年筆・文具店を開業。戦時中は出征する多くの学徒が万年筆を買い求めた。昭和37年閉店する。
明治41年 木造二階建 土蔵造
藩政時代から商家として和菓子製造を営んできたが、明治38年の七尾の大火で消失明治41年に再建された現存する土蔵造の七尾町家の数少ない一つである。
代々、大森屋の屋号で和菓子屋を営んできたが、明治44年、鳥居長助が引き継ぎ鳥居花鳥堂となる。大正14年、子息定吉が醤油製造業に転業し現在に至っている。
明治43年 木造二階建 土蔵造
明治38年の七尾の大火後に普及した土蔵造りによる七尾町家で、その典型的な形として重要である。重厚で情緒ある土蔵造りは、現存する数少ない一つである。
明治25年、高澤浅次郎がろうそく店を創業。信仰風土の篤い地元北陸をはじめ、全国に和ろうそくを納めている。平成8年、店舗二階にろうそくミニ博物館を開館する。
明治39年頃 木造二階建(登梁構造) 切妻、平入り
所在地は七尾市馬出町だが、正門は一本杉通りに向いており、一本杉町の仕出し料理・宅蔵と中谷内陶器店の間の通路が入口になる。
開基は、あの勧進帳で有名な第12代冨樫左衛門尉泰家入道仏誓の孫で、冨樫左衛門利信である。乾元元年(1302)に金沢の木越の地に創建した。この冨樫利信は文永11年(1274)に比叡山で天台宗の僧侶となり宗性の名乗った。
宗性は76歳で浄土真宗の第3代覚如上人に帰依され、帰国にあたり恵信僧都(源信)自作の阿弥陀如来像と親鸞聖人御自筆の六字名号を拝受して木越(現・金沢市木越町)の房舎を建立した。
(「出会いの一本杉」には「恵信」とすべきところ「専信」となっているがミスプリである。恵信僧都は天台宗の僧侶で『往生要集』3巻の著者として知られ、親鸞が定めた七高僧の一人で第六祖である)
第7代光徳寺の住持・現道が加賀一向一揆の大坊主として活躍、長亨2年(1488)、加賀国領主富樫正親を滅ぼし(長亨の一揆)、「百姓の持ちたる国」を実現した。
加賀能登一帯に浄土真宗が強いのは、蓮如上人が吉崎御坊(福井県の石川県との県境にある)に来られて布教したのでこの地方に深く教線が広がったようだ。
蓮如上人はその後は山科本願寺で念仏の布教にあたられた。加賀一向一揆が起こった際には、その指導者であった木越の光徳寺が吉藤専光寺とともに蓮如上人から「お叱り御文」を送られている。それは今でも光徳寺に残っているそうだ。
その後、天正8年(1580)織田信長から一向一揆平定の命令を受けた越前北の庄城の柴田勝家は2万の大軍を率いて加賀に乱入。木越光徳寺でも一向宗と織田軍との間で大合戦が行われた。合戦の模様などは、門徒三千人ほどが、織田軍と戦った内容が『官知論』という史料に詳しく載っている。その時、光徳寺十一世・賢明が殉死した。
死を免れた衆徒らは、たった二歳の光徳寺の跡継ぎの子抱えて、黒島(現・志賀町黒島)に落ち延び、そこの蹴落山に房舎を建てた。
後に海岸近くで、風波が激しく幾度も水害に遭ったので、慶長6年(1601)に、鹿島郡府中村違堀(現・七尾市府中町違堀)に移った。同年に利家から能登三郡(羽咋郡、鹿島郡、鳳至郡)の触れ頭を命ぜられた。そして江戸も末の天保12年(1841)にさらに移転を行い現在地になったそうだ。
毎年11月3日は報恩講(浄土真宗の場合、宗祖親鸞への報恩謝徳のために行われる法会で親鸞の忌日の前後などが多いが、光徳寺では11月3日となっている)。その際は、門前町である一本杉通りに大市「七尾秋の大市」が立ち、露店が立ち並び沢山の人出が繰り出す縁日となっている。
開基の宗性こと俗名・冨樫利信などは冨樫という最初の姓を「冨」を用いて書いたが、昔は「冨樫」と書いたようだが、現在の住持の姓は「富」の字を用いているようだ。
光徳寺会館所蔵の主な法宝物は次の通りである。
● 親鸞聖人御自筆の六字名号
● 恵心僧都(源信)自作の阿弥陀如来像
● 親鸞聖人御影
● 十五僧連座像
● 蓮如上人自筆の「三帖和讃」
● 親鸞聖人絵伝 4幅
● 聖徳太子御影
● 七高僧御影 など
これらの法宝物だが、いきなり観光客が訪問しても見せてはくれないと思われる。境内に入るのは問題ないが、寺では本堂及び光徳寺会館に勝手に入ることを禁じている。入りたい場合は事前に(当日ではなく少なくとも1、2日前に)連絡し、住職に了解をとることをオススメする。
◆ 光徳寺 七尾市馬出町ツ35 TEL (0767)53-0555 |
この記事を書くにあたっては『石川県大百科事典』などや『官知論』など歴史書も当って調べたが、県の郷土史関係者の見解などと寺伝では少し異なる点も多い。結局内容のほとんどは「出会いの一本杉」の小冊子に従ったが、一部『木越山光徳寺七百年史』に基づき訂正した。各本に見解などの相違もあるが由緒深き名刹であることには変わりはない。
一本杉通りには仏壇店が2軒ある。徳永仏壇店とぬのや仏壇店です。これら2軒の店は勿論、伝統工芸七尾仏壇の店です。
七尾仏壇は、17世紀の後半から約400年も続く伝統工芸です。その特徴は、堅牢、華麗、荘厳が3大特徴とされます。堅牢なのは、江戸時代能登の悪路を遠く運ぶため痛まないようにとのことから出来上がった様式だそうです。
仏壇は五職の分業で、生地の素木を削る木地師、漆や金箔を打つ塗師、木彫を作る彫刻師、蒔絵を描く蒔絵師、金具を作る金工師それぞれが協力して出来上がります。
七尾仏壇は、これらの技術と伝統が認められて昭和53年に当時の通産省(現・通商産業省)により伝統的工芸品産業に指定されました。
その指定の基準は、その製品製造過程が手工芸的である事、伝統的技術により製造されている事、一定の地域において生産されるものである事が要件となっています。それらを十分に充たし今では石川県を代表する伝統工芸の一つとなっております。
一本杉通りを観光に来られた方は、一度これらの店にも立ち寄って七尾を代表する伝統工芸をご覧になってみてはいかがでしょうか。両店とも語り部処であります。
また仏壇などの購入を計画している方へ...この七尾仏壇は遠くに住んでいる七尾出身者などが買い求めるケースも多いとか。そういう意味では全国対応しているようなので、お気軽に問い合せてみるのがいいでしょう。
◆ ぬのや仏壇店 七尾市一本杉町24番地 TEL (0767)52-0756 |
能登守護畠山氏の時代に、既に七尾城下に細工所が設けられていたことが、発掘などでわかってきました。天正9年(1582)前田利家公が能登一国を与えられて、七尾城に入城しますが、同10年(1582)、港に近い所口明神野に新たに小丸山城を築き、築城と同時に、多数の職人が呼び寄せられ、仏壇業の中心的な塗師も多く移り住んだと言われています。実際、元和2年(1616年)の加賀藩の資料によると、古くからの府中町、大手町、豆腐町、味噌屋町などの職人町とともに、「塗師町通り」の名称もみられる。よってすでにこの頃、仏壇業が成立していた証拠と考えられます。
七尾仏壇の大きな特徴として、堅牢・華麗・荘厳の3点があげられます。
能登の民家は大きいので、仏壇も200代という大きい物を注文する者が80%も占めるそうである。大きいだけでなく、漆塗りや金箔加工など石川の優れた工芸技術を駆使した華麗な装飾芸術品ということです。七尾仏壇は、典雅な雰囲気の金沢仏壇と比較すると、豪華絢爛で、かつ荘厳さを感じさせる作りとなっています。金箔を十二分に使用し、二重破風(はふ)屋根の荘厳な「中立(なかだち)(宮殿のこと)」が特色です。青貝をたっぷり使い気品のある色彩と立体感に満ちた蒔絵を施してあります。また、緻密で幽玄な趣のある障子戸の彫刻や輪島塗の流れをくむ漆塗りなどにより、圧倒的な華麗さを誇っています。 また、仏具として扱われる三卓(さんしょく)(花鋲(けびょう)、仏具を置く三つの台)を仏壇の付属品として作ることも七尾仏壇の特徴の一つです。
次に堅牢さです。能登は山間部が多く、昔から交通が不便でした。従って、このような大きく華麗な仏壇を完成後に運ぶには、2人がかりで棒にぶら下げて担いだり、急な坂では1人で背負うなどしなくてはいけませんでした。このために、運搬に耐える堅牢に仕上げなければなりませんでした。それで鏡板(本尊、脇仏の後板)を2重にする2重鏡板(本尊、脇仏の後板)を3枚取りつけるという独自の製法を用い、組み立ては全てほぞ組(木材に彫ってある穴にはめこむために別の木材の端に作った突起)にするなど工夫を凝らし、丈夫な造りにしています。
仏壇製造には、木地師・彫刻師・塗師・蒔絵師・金工師などの技術者が古くからいたが、これらの技師が仏壇を作成するようになったのは、能登の寺院内に仏壇が置かれるのは一部の古刹を除き元禄頃に始まったと考えられます。民家に浸透するのは化政(文化・文政)期以降ある。民家にとっても十村や肝煎クラスの大百姓であって、庶民の家に入るのは明治に入ってからであります。能登は加賀と同じく、古くから真宗王国といわれ、信仰心厚い農民や漁民によって仏壇業の重要を支えてきたと考えられます。
石川・富山両県に七尾・金沢・美川・高岡で仏壇が製造されています。これらの町の位置からみて、七尾仏壇が今日まで七尾の伝統産業として残ってきた理由としては、昔から能登方面に、多くの顧客をもっていたと考えられます。また、七尾は古くから能登の政治、経済、文化の要所としての役割を果たしていたことから、販路拡大にも有利であり、北前船が立ち寄る港としてでも有名であり、船で遠く北海道までも運ばれています。仏壇師は仏壇のみならず、お宮の御輿も製造していて、七尾市の技師名入りの御輿や仏壇を多くみることができます。
例えば、七尾市今町の長福寺に寛政3年(1791)の銘があり、大工水株屋亦四郎塗師久左衛門の名が見えます。また、古いものとして、山の寺の長齢寺に元文5年(1740)に大工一本杉町(現七尾市一本杉町)嶋屋五右衛門の名が知られています。
【 参考図書 】
「(図説)七尾の歴史文化」(七尾市)
「加賀百万石」(田中喜男・教育社)
「石川県のホームページ」の中の『七尾仏壇』
「江戸時代、七尾に岩城姓を名乗る塩屋という商人の一族が存在した。この一族は江戸時代を通して町年寄など町の重職を歴任して七尾の町を支え、また、数多くの俳人を輩出して文化・学芸面でも多大な貢献をした。
塩屋一族の中でも特に塩屋清五郎家は、七尾湾周辺の※煎海鼠(いりこ)を一手に扱う幕府の御用商人として活躍し、また京の儒者皆川淇園や頼山陽など当時一流の文化人らと深い交友関係を持っていたことで知られる。三代清五郎こと岩城穆斎は『所口の賢人』と讃えられている。
文化年間(1804年~)までは塩屋宗家五郎兵衛家、それ以降は塩屋清五郎家の当主が代々所口町(七尾町)町年寄を代々つとめている。
塩屋清五郎は、江戸時代の七尾を語るにはなくてはならない存在である。しかし、明治時代以降、時代の変化の荒波の中で、塩屋の名は記録の上から姿を消してしまう。そして、現在。残念ながら塩屋一族の存在は、七尾市民の記憶からほぼ完全に消え去ってしまっている。
そこで、塩屋一族を顕彰すべく、今回採り上げてみた。
※煎海鼠(いりこ)‥‥能登のナマコは古代より特産品として知られる煎海鼠は、干鮑(ほしあわび)・鱶鰭(ふかひれ)と共に俵物三品として長崎貿易における中国への重要な輸出品であり、流通は幕府の規制を受けた。
上記の文章は常福寺の畠山浄(はたけやまきよし)さんが公開している『七尾古写真アーカイブ』のHPの中の『塩屋清五郎とその一族』のコーナーにある冒頭の紹介文を引用させてもらった。
現在、一本杉通りの東の入口になっている仙対橋脇の中山薬局の場所は、江戸時代、俳人など能登有数の文化人を出した塩屋家跡であった。
この一族は、先祖は越前(福井県)より来た人で七尾に住着き、商売を始めた。その後、上記にあるよう京、大坂、江戸などの著名な学者とも交流があり江戸時代能登の文化をリードしていた。岩城泰蔵(岩城は塩屋(屋号)の姓)、岩城穆斉、岩城楽斎、岩城西陀、岩城木聖、大野長久など多くの人材を輩出した。
また海鼠を煎った煎海鼠(いりこ)で長崎まで出かけ、清朝の貿易するなど大商いしていたことは地元でもあまり知る人はいない。上記のブログではこの豪商にちなんで、一本杉通りの東の入口にあたる仙対橋が、昔は塩屋橋とも呼ばれていたことなども書かれている。
一本杉町で生誕。
第二次大戦末期帰郷後も、一本杉町に住む。
明治19年 1月8日七尾の医家・横川家で誕生。
名前の呼び方だが「巴人は正式には「はじん」のようだが、地元ではどういう訳かしらないが「ぱーじん」さんという呼び方で親しまれている。
まず横川家のことから紹介しておこう。横川家は、七尾の旧家である。巴人は、寛政年間に漢学塾保合堂を開いた横川長洲より数えて6代目にあたる。
長洲は、壮年京都に出て皆川棋園に経書を学び、小石元俊に蘭法医術を学び、七尾に帰ってきて医家を開き、傍ら郷党の師弟に経学を教えた。その門からは、飯田(珠洲市)の葛原秀藤、七尾の安田竹荘などの逸材が出た。
長洲の息子、有孚も蘭方を学ぶ傍ら、国学に専念し本居太平の門人・橘尚平らの人々を七尾に招き、古学の講義を聞くなど、七尾における学統を伝えた。
有孚の子・文蔵は安田元蔵に漢籍を習い、京都の小石塾において小石流の西洋医術を学んだ。俊秀の誉れが高かったが、31歳で夭折した。
巴人の厳父仲蔵は、文蔵没後横川家に養子として迎えられた。春水の雅号を持ち、浪花大庵六世を許され、明治最後の純漢方医として名高かった。
無角(謹一郎)は、文蔵の長男として生まれたが、早くより上京し、後に浅草に開業医として知られた。三痴庵、竹庵などの号もあり、名僧山田寒山師と親交が深く、中里介山のあの名著「大菩薩峠」に道庵先生として描かれている。
なお中里介山の「高野の義人」(明治43年頃)という小説がありますが、主人公は横川左内という義に勇む者で、男の意気を骨子に描いたものです。この主人公のモデルは巴人です。介山とは、一つ違い(介山が一つ歳が上)で友人でした。この「高野の義人」は脚本化され、本郷座で上演されて、当時非常に好評を拍したようです。
明治38年 | 石川県立第三中学校(現県立七尾高等学校)三年を終えた巴人は、医学を学ぶために上京、無角のもとに身を寄せ、東京医学専門学校に入学したが、幾ばくもなく学業を放棄。その間に、田岡嶺雲、幸徳秋水、木下尚江らの影響を強く受け、前田黙鳳を知るに及びその門下に入った。 |
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明治42年 | 前田黙鳳が「健筆会」を組織するに当たって、その幹事に就任。第一回健筆会を上野日本美術協会に開催した。以来10年間、前田黙鳳の後継者として「健筆会」の運営に当たり中村不折、河東碧梧桐などと共に、明治・大正期の六朝風書道の普及に大きな役割を演じた。 上京後も、しばしば七尾に帰り、郷土の知友と図って「日本海新聞」、「エゴ」などの地方文芸文化誌の出版について助言援助するなど戦前の七尾文化層の指導的役割を果たしてきた。 |
昭和20年6月 |
戦争末期の東京を逃れ、成子夫人と共に帰郷し、自適の生活の中に書画の道に精進し、独自の世界を高めていくと共に、戦後の七尾における文化運動に対して適切な助言指導を寄せていた。 |
昭和23,4年頃より | 「能登教壇」、雑誌「能登往来」などに美術文化評論、随筆などを書き格調高い文章は各界に好評を拍す。 |
昭和39年 | 同じ七尾出身の直木賞作家・杉森久英氏は、巴人の気骨ある東洋的文人の風格と人生を描いた「能登の人」を雑誌「大法輪」に1月より5回にわたって連載した。 |
昭和39年3月 | 成子夫人歿。 |
昭和39年11月 | 七尾市文化賞を受賞。 |
昭和39年12月 | 七尾市済美館において「横川巴人個展」を開催。 |
昭和42年 | 県教育界の先達、中村禎雄氏(巴人の甥)の次男敬雄氏を養子として迎えた。敬雄氏は北國新聞社論説委員として活躍した。 |
昭和44年3月25日 | 急性肝炎のため七尾市能登総合病院に入院。 |
昭和44年5月11日 | 午前6時40分、永眠。享年83歳。 |
※この年譜は、横川巴人著作集「夢」の中の「横川巴人年譜」及び「月刊能登 '69・8」(横川巴人追悼号)の年譜を、比較し、ほぼ転記させてもらいました。
※達磨の絵と「夢」の書は、私・一本杉蔵が所蔵するものを使わせてもらった。
一本杉通りにあり、登録有形文化財にも登録されている北島屋茶店(店主・一本杉町町会長・北林昌之)の建物は、もともとは明治37年頃、北前船の廻船問屋として活躍した津田嘉一郎の別宅として建てられたものである。
津田嘉一郎が頭角をあらわした明治初期その頃はまだ七尾港には五百石以上の帆船が百隻以上常時出入りしていた。これらの北前船は藩政時代と同じく、南は下関から北は新潟・秋田・松前の各地を往来し、米殻・清酒・建具・藁工品などを移出し、帰路は海産物を北陸地方へ運んだ。勿論、後には近代船も所有したようだ。
また津田嘉一郎は当時の七尾を代表する商人であったので銀行も経営していた。
七尾古写真アーカイブのHPには、明治初期頃のその銀行の写真も掲載されている。
また明治42年(1909)には、彼が中心になって11人の発起人による七尾電気株式会社を組織し、翌3月には創立総会を開き設立を見た。当初は火力発電で75kwの発電をして送電した。その頃電灯が点いたのは、七尾町、矢田郷村の一部、西湊村小島の一部で、5百戸に過ぎなかったという。機関に故障も多く非難が多く寄せられたとの記録も残っている。
それでも開明的な考えを持った事業家であった事は間違いない。
なお津田嘉一郎の生没年は、明確に確認できなかった。知っている方は教えていただけると有難い。
七尾市の白銀町の家(現在は一本杉町。前田リフォーム店となっている家)で生れ、金沢に移るまで一本杉町の住居(現在一本杉公園(木下酒店隣)の敷地に家があった)で育つ。
没落士族の出で芸者であった義理の祖母と、小学校の教員であった母との間に挟まれて育った。
大正7年6歳の時七尾尋常小学校に入学するが、大正11年の十歳の時、吏員を勤めて石川県属となった父の転任で金沢に移り住み、菊川中学校、金沢第一中学校(現・泉丘高校)、第四高等学校文科甲類(現・金沢大学)に学び、昭和9年東京大学国文科を卒業。
東京大学在学中に第11次「新思潮」に参加、処女作『燎野(りょうや)』などを発表して早くから作家を志す。
昭和9年東大を卒業するが就職できず、埼玉県立熊谷中学校の嘱託教員(国語)、中央公論社、大政翼賛会文化部、図書館協会などを経て、戦後、河出書房(現在の河出書房新社)に入社。
河出書房で雑誌「文芸」の編集長を勤め、野間宏(ひろし)、中村真一郎ら第一次戦後派登場に貢献。
昭和27年40歳の時に、デイヴィッド・ガーネットやフランツ・カフカの影響が色濃い異風の短編風刺小説『猿』を書き上げ、それが「中央公論」に掲載されて、翌28年に第29回芥川賞候補になる。
文壇の注目を浴びたのを機に、もともとは作家志望だったので河出書房を退社し、文筆活動に入る。
文芸評論、人物論、書評などにも筆をとるかたわら、諧謔・風刺小説を次々と発表した。昭和35年、毎日新聞夕刊に連載した『黄金バット』が、第42回直木賞候補になる。
また昭和37年に、同郷(旧美川町で現・白山市)出身の作家・島田清次郎の生涯を描いた『天才と狂人の間』で第47回・直木賞を授賞。文壇での地位を確立した。
以後『辻政』(同じ石川県出身の陸軍参謀辻政信を描いた)、『啄木の悲しき生涯』、『明治の宰相』『小説坂口安吾』、『小説菊池寛』、『近衛文麿』(第41回毎日出版文化賞受賞)、『苦悩の旗手 太宰治』、『東郷と乃木』、『大風呂敷・後藤新平の生涯』、『新渡戸稲造』など伝記小説を次々と発表。また料理人秋山徳蔵をモデルとした『天皇の料理番』のほか、『伝説と実像』(昭和42年)などで昭和史の発掘を試みる。日本ペンクラブの副会長を務めるなど幅広い活動をした。
昭和60年、『能登』が平林たい子文学賞を受賞。この年、井上靖と七尾に来て産業福祉センターで講演会をしている。
平成元年、長年の伝記文学に対する功績が認められ、勲三等瑞宝章を下賜させる。
平成4年、七尾市名誉市民となる。
翌平成5年、第41回菊池寛賞及び第46回中日文化賞を受けるなど文学賞は数多い。
平成9年1月死去。
郷土七尾市出身の輪島大士を描いた『天才横綱輪島大士物語』が最後の作品となった。
「杉森氏の創作の信条は、その対象に対して徹底的に調べ、目と耳と足を駆使して納得の行くまで真実を求めることであった。その執念のような辛抱強い性格形成は氏が幼少期を過ごした厳しい北陸の風土とは無縁でなかった」(七尾市の「杉森久英記念文庫」のパンフレットより)
杉森久英氏の死後、平成9年10月夫人の喜久代さんより故人の蔵書などが七尾市に寄贈され、「杉森久英記念文庫室」が出来ました。
場所は馬出町(駐車場の出入口は一本杉通りの中ほどにあり)の中央図書館馬出資料整理室(前中央図書館)3Fにおいて展示しています。
●蔵書 10,487冊
●雑誌 3,393冊
●遺品 227冊
『杉森久英記念文庫』室を利用されたい方は、七尾市立中央図書館(JR七尾駅前ミナクル3F)に連絡して、恐れ入りますが了解をとってから訪問願います。
◆ 杉森久英記念文庫室 問合せ先 七尾市立中央図書館 |
大正15年 |
七尾市一本杉町生まれ |
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昭和13年 | 戦時京都に出て、叔母の本屋に勤めるかたわら、京都市立絵画専門学校(現京都市絵画 専門学校)に学び、須田国太郎に師事するが中退。 戦後まもなく京都自由美術研究会で学ぶ |
昭和25年 | モダンアート協会創立に参加 |
昭和26年 | 第2回モダンアート展に招待出品 (同時に会員に推挙。以後、会の重鎮として活躍) |
昭和28年 | 抽象と幻想展(国立近代美術館主催)に招待出品 |
昭和30年 | 日米抽象美術展(国立近代美術館主催)に招待出品 |
昭和36年 | 第2回パリ国際青年ビエンナーレ展(パリ近代美術館)に招待出品 |
昭和38年 | 第14回朝日秀作美術展に招待出品 |
昭和39年 | 第15回朝日秀作美術展に招待出品 第4回東京国際版画ビエンナーレ展(国立近代美術)に招待出品 |
昭和41年 | 第5回国立近代美術館コレクション展に出品、買上 |
昭和47年 | 日本現代美術展に招待出品 |
昭和52年 | 日本現代美術パノラマ展(セントラル美術館)に招待出品 |
昭和59年 | 4月26日東京にて死去 |
戦後の画壇において日本のモダンアートの有望な新進作家として活躍。一貫して抽象画を描き続け、晩年は幾何学的抽象、『鋭角シリーズ』に至った。また、ガラスモザイクによる壁画でも知られ、県内の公共施設に多くの作品が残っています。
江戸時代、一国一城令の後、小丸山城は廃城となった。七尾(所口)は城下町でなくなったために武士の少ない町となった。町奉行所関係の武士が足軽まで含めても(時期により多少増減しているが)十数名ほどだったという。それでも漢学塾が幾度か出来たようだ。
七尾は結構向学な町人が居たようだから、武士だけでなく富裕な町人も習ったのかもしれぬ。
横川巴人の『夢』には、江戸から明治にかけての漢学塾4つをあげている。
江戸時代の古い漢学塾から言うと、岩城穆斉(いわきぼくさい:天明7年(1787)歿。享年42歳)の臻学舎(しんがくしゃ)、次いで横川長洲(文政11年(1825)歿。享年65歳)の保合堂。
この2人は、何れも江戸後期の著名な儒者・皆川淇園(みながわきえん)門下である。そしてともに家塾は、一本杉通りにあった。 岩城穆斉の屋敷の位置は、御祓川仙対橋詰の中山薬局の辺り。ただし当時はこの辺に左岸川岸の道路はなく、今の中山薬局の横の川岸の道路を含めた辺りまで屋敷地だった。
また横川長洲の保合堂は、はっきりした資料は無いが、巴人の家と同じ現在の松本呉服店駐車場(二穴理容室の北向側の角の敷地)と思われる。
2人の説明をもうちょっと付け加える。
岩城穆斉は、煎海鼠の御用商人として七尾の豪商となった廻船業の塩屋清五郎家の三代目である。この岩城家に繋がる一族は、数多くの文化人を輩出した。岩城穆斉自身も、「所口の賢人」と称えられた有名な人物である。
塩屋清五郎家とその一族については、 「七尾古写真アーカイブ」のサイトで詳しく説明されています。
この一族については佐々波與佐次郎氏が『能登風土記』の中で詳しく書いており、私もその本を持っていますが、このサイトでは最新の成果も盛り込まれています。
例えば元禄13年発刊の『欅炭(くぬぎずみ)』の俳書の著者・大野長久(松永貞徳の貞門派の俳人)と三代目塩屋五郎兵衛が同一人物であるなど事なども載っており、七尾の歴史を知るには必見のサイトです。
話が逸れましたが、次ぎに横川長洲について述べると、横川巴人の先祖で、壮年時代に京都に出て医術を小石元俊(関西で蘭法を用いた最初の人物)に就いて学び、また経学の方は皆川淇園に学んだという。巴人の言い方だと「七尾に帰ると分家として一家を構え、医業と同時に家塾保合堂を開き、子弟に経書を教授した。」
3番目は、(現・七尾市多根町出身)の安田元蔵(竹荘と号す)(医師。明治4年(1871)歿で、享年65歳)で、相生町に家塾を開いている。安田竹荘は横川長洲の晩年の塾生である。13歳から17歳まで学んだとあり、寛政8年から享和3年まで保合堂で学んでいた。
そして最後の4番目が、家塾紹成社を開いた中村豫(立軒と号す)(明治26年(1873)、享年71歳)である。彼は明治4年(1871)に金沢から七尾にやってきて、翌明治5年にその家塾を開き、七尾を中心に能登の子弟に経史を講じたという。
家塾紹成社の場所は、現在小丸山公園の駐車場になっている以前テニスコートだった場所だ。
巴人氏の話では、戦前まで家塾の建物はあったが、終戦の十日前強制取壊しが行われ、立派だった庭園は、国体のテニスコートに借用するため壊されたという。
中村立軒の門人には、第一期衆議院議員の神野良、七尾市中狭町出身の林太一郎陸軍中将・第7師団長、七尾市中島町出身の三井清一郎陸軍主計総監・後に貴族院議員などがいる。
ところで『図説 七尾の歴史と文化』の「七尾の学校事始め」(P160,161)で、明治5年1月の「町役員交名等書上申書」の中に臻学所掛りとして任命された職員や氏名(教師は畠山忠太郎、副教師は安田元吉(安田元蔵の長男) など)が載っていることから、七尾に明治4年に(臻学舎ではなく) 臻学所と名付けられた公的教育機関が設けられていた事がわかり、注目すべきことと述べている。そしてこの臻学所の設立の経緯や教育については史料が無いので不明だということが書かれている。
ただ在った場所はわかっている。明治5年当時は区会所内の臻学所にあったと言われ、区会所は現在の七尾郵便局の場所にあった。明治5年9月に七尾県は、金沢県と合併し石川県となり、「区学校規則」によって臻学所は七尾町区学校と変更になった。区学校の教師も、臻学所同様、畠山太郎(忠太郎から改名)がなっている。
この七尾町区学校も、「学生」の発布により、明治6年7月には七尾小学校となり、国の指導を受けていくことになったという。
私が思うに、この臻学所は臻学舎の後身ではなかろうかと想像する。第一に名前が似すぎている。「臻」という字は、寄り集まるとか、衆の意味がある。よって臻学とは人々が寄り集まって学ぶという意味だろうが、そんなに標準的な言葉でもないようだ。岩城穆斉の塾頭ぐらいをやっていた人物が、穆斉の死後もその志を受継ぎ、後進の指導にあたったとか、あるいは塩屋家の誰かが継投したのかもしれない。そして家塾から少し公的な区会所内の塾に性格を変え名も変えたのではないか。
ちなみに3番目に挙げた漢学塾の安田元蔵(竹荘)の三男・安田三平は、明治17年(1884)に私立安田英和学校を開いている。彼は明治9年慶応義塾に入学し、9年間勉強してこの学校を開いたそうである。
安田英和学校では、英語、漢文、数学を教え、その弟子は300人にも及んだという。この学校は十年続き、明治27年(1894)に三平が亡くなると閉校となった。
この安田家は、教育者を多く輩出したらしい。私が七尾高校にいた時も、この家の血統の安田俊彦先生という英語の先生がいた。英語のほか、ロシア語も堪能で、七尾はロシアの船が沢山入港する港町なので、時々通訳もしているという話も聞いたことがあった。確かに当時の七尾高校の英語の先生の中では私も一番凄いと思った先生であった。
この様に色々見ていくと、七尾は江戸時代に城下町ではなくなったが、やはり能登の政治・経済だけでなく文化の都として明治頃まで今以上に勢いがあったのが感じられる。
(参考図書)
横川巴人『夢』(横川巴人会発行)
『図説七尾の歴史と文化』(七尾市)
佐々波與佐次郎『能登風土記』(青山学院大学法学会)
七尾市教育委員会発行『七尾のれきし』
ほか