能登・七尾市・一本杉通り。h24年度振興会が10年間の街つくりに対し、第6回ティファニー財団賞・伝統文化大賞を受賞。

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一本杉通り界隈ゆかりの人々

一本杉通り界隈は、古くから七尾市の中心街で、多くの文化人を輩出したり、また多くの文化人も訪れました。ここではそういった人々を紹介します。

直木賞作家・杉森久英(すぎもりひさひで) (1912~97)

杉森久英顔写真 七尾市の白銀町の家(現在は一本杉町。前田リフォーム店となっている家)で生れ、金沢に移るまで一本杉町の住居(現在一本杉公園(木下酒店隣)の敷地に家があった)で育つ。
没落士族の出で芸者であった義理の祖母と、小学校の教員であった母との間に挟まれて育った。
大正7年6歳の時七尾尋常小学校に入学するが、大正11年の十歳の時、吏員を勤めて石川県属となった父の転任で金沢に移り住み、菊川中学校、金沢第一中学校(現・泉丘高校)、第四高等学校文科甲類(現・金沢大学)に学び、昭和9年東京大学国文科を卒業。
東京大学在学中に第11次「新思潮」に参加、処女作『燎野(りょうや)』などを発表して早くから作家を志す。

杉森久英 少年期居住跡の碑

昭和9年東大を卒業するが就職できず、埼玉県立熊谷中学校の嘱託教員(国語)、中央公論社、大政翼賛会文化部、図書館協会などを経て、戦後、河出書房(現在の河出書房新社)に入社。

河出書房で雑誌「文芸」の編集長を勤め、野間宏(ひろし)、中村真一郎ら第一次戦後派登場に貢献。

昭和27年40歳の時に、デイヴィッド・ガーネットやフランツ・カフカの影響が色濃い異風の短編風刺小説『猿』を書き上げ、それが「中央公論」に掲載されて、翌28年に第29回芥川賞候補になる。
文壇の注目を浴びたのを機に、もともとは作家志望だったので河出書房を退社し、文筆活動に入る。
文芸評論、人物論、書評などにも筆をとるかたわら、諧謔・風刺小説を次々と発表した。昭和35年、毎日新聞夕刊に連載した『黄金バット』が、第42回直木賞候補になる。

杉森久英 著作

また昭和37年に、同郷(旧美川町で現・白山市)出身の作家・島田清次郎の生涯を描いた『天才と狂人の間』で第47回・直木賞を授賞。文壇での地位を確立した。

以後『辻政』(同じ石川県出身の陸軍参謀辻政信を描いた)、『啄木の悲しき生涯』、『明治の宰相』『小説坂口安吾』、『小説菊池寛』、『近衛文麿』(第41回毎日出版文化賞受賞)、『苦悩の旗手 太宰治』、『東郷と乃木』、『大風呂敷・後藤新平の生涯』、『新渡戸稲造』など伝記小説を次々と発表。また料理人秋山徳蔵をモデルとした『天皇の料理番』のほか、『伝説と実像』(昭和42年)などで昭和史の発掘を試みる。日本ペンクラブの副会長を務めるなど幅広い活動をした。
昭和60年、『能登』が平林たい子文学賞を受賞。この年、井上靖と七尾に来て産業福祉センターで講演会をしている。

平成元年、長年の伝記文学に対する功績が認められ、勲三等瑞宝章を下賜させる。
平成4年、七尾市名誉市民となる。
翌平成5年、第41回菊池寛賞及び第46回中日文化賞を受けるなど文学賞は数多い。
平成9年1月死去。

郷土七尾市出身の輪島大士を描いた『天才横綱輪島大士物語』が最後の作品となった。

「杉森氏の創作の信条は、その対象に対して徹底的に調べ、目と耳と足を駆使して納得の行くまで真実を求めることであった。その執念のような辛抱強い性格形成は氏が幼少期を過ごした厳しい北陸の風土とは無縁でなかった」(七尾市の「杉森久英記念文庫」のパンフレットより)

 

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書家&画家&文筆家・横川巴人 (1886~1969)

横川巴人

一本杉町で生誕。
第二次大戦末期帰郷後も、一本杉町に住む。
明治19年 1月8日七尾の医家・横川家で誕生。

名前の呼び方だが「巴人は正式には「はじん」のようだが、地元ではどういう訳かしらないが「ぱーじん」さんという呼び方で親しまれている。
まず横川家のことから紹介しておこう。横川家は、七尾の旧家である。巴人は、寛政年間に漢学塾保合堂を開いた横川長洲より数えて6代目にあたる。
長洲は、壮年京都に出て皆川棋園に経書を学び、小石元俊に蘭法医術を学び、七尾に帰ってきて医家を開き、傍ら郷党の師弟に経学を教えた。その門からは、飯田(珠洲市)の葛原秀藤、七尾の安田竹荘などの逸材が出た。
長洲の息子、有孚も蘭方を学ぶ傍ら、国学に専念し本居太平の門人・橘尚平らの人々を七尾に招き、古学の講義を聞くなど、七尾における学統を伝えた。
有孚の子・文蔵は安田元蔵に漢籍を習い、京都の小石塾において小石流の西洋医術を学んだ。俊秀の誉れが高かったが、31歳で夭折した。

達磨の絵

巴人の厳父仲蔵は、文蔵没後横川家に養子として迎えられた。春水の雅号を持ち、浪花大庵六世を許され、明治最後の純漢方医として名高かった。
無角(謹一郎)は、文蔵の長男として生まれたが、早くより上京し、後に浅草に開業医として知られた。三痴庵、竹庵などの号もあり、名僧山田寒山師と親交が深く、中里介山のあの名著「大菩薩峠」に道庵先生として描かれている。

なお中里介山の「高野の義人」(明治43年頃)という小説がありますが、主人公は横川左内という義に勇む者で、男の意気を骨子に描いたものです。この主人公のモデルは巴人です。介山とは、一つ違い(介山が一つ歳が上)で友人でした。この「高野の義人」は脚本化され、本郷座で上演されて、当時非常に好評を拍したようです。

横川巴人年譜

明治38年 石川県立第三中学校(現県立七尾高等学校)三年を終えた巴人は、医学を学ぶために上京、無角のもとに身を寄せ、東京医学専門学校に入学したが、幾ばくもなく学業を放棄。その間に、田岡嶺雲、幸徳秋水、木下尚江らの影響を強く受け、前田黙鳳を知るに及びその門下に入った。
明治42年 前田黙鳳が「健筆会」を組織するに当たって、その幹事に就任。第一回健筆会を上野日本美術協会に開催した。以来10年間、前田黙鳳の後継者として「健筆会」の運営に当たり中村不折、河東碧梧桐などと共に、明治・大正期の六朝風書道の普及に大きな役割を演じた。 上京後も、しばしば七尾に帰り、郷土の知友と図って「日本海新聞」、「エゴ」などの地方文芸文化誌の出版について助言援助するなど戦前の七尾文化層の指導的役割を果たしてきた。
昭和20年6月

夢の書

戦争末期の東京を逃れ、成子夫人と共に帰郷し、自適の生活の中に書画の道に精進し、独自の世界を高めていくと共に、戦後の七尾における文化運動に対して適切な助言指導を寄せていた。
七尾帰郷後は、一本杉町の現在・松本呉服店駐車場(のと共栄信用金庫のATM出張所の向井側)に住んでいた。

昭和23,4年頃より 「能登教壇」、雑誌「能登往来」などに美術文化評論、随筆などを書き格調高い文章は各界に好評を拍す。
昭和39年 同じ七尾出身の直木賞作家・杉森久英氏は、巴人の気骨ある東洋的文人の風格と人生を描いた「能登の人」を雑誌「大法輪」に1月より5回にわたって連載した。
昭和39年3月 成子夫人歿。
昭和39年11月 七尾市文化賞を受賞。
昭和39年12月 七尾市済美館において「横川巴人個展」を開催。
昭和42年 県教育界の先達、中村禎雄氏(巴人の甥)の次男敬雄氏を養子として迎えた。敬雄氏は北國新聞社論説委員として活躍した。
昭和44年3月25日 急性肝炎のため七尾市能登総合病院に入院。
昭和44年5月11日 午前6時40分、永眠。享年83歳。

※この年譜は、横川巴人著作集「夢」の中の「横川巴人年譜」及び「月刊能登 '69・8」(横川巴人追悼号)の年譜を、比較し、ほぼ転記させてもらいました。
※達磨の絵と「夢」の書は、私・一本杉蔵が所蔵するものを使わせてもらった。

 

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江戸時代能登有数の文化人を多く輩出した豪商・塩屋家跡

「江戸時代、七尾に岩城姓を名乗る塩屋という商人の一族が存在した。この一族は江戸時代を通して町年寄など町の重職を歴任して七尾の町を支え、また、数多くの俳人を輩出して文化・学芸面でも多大な貢献をした。

塩屋一族の中でも特に塩屋清五郎家は、七尾湾周辺の※煎海鼠(いりこ)を一手に扱う幕府の御用商人として活躍し、また京の儒者皆川淇園や頼山陽など当時一流の文化人らと深い交友関係を持っていたことで知られる。三代清五郎こと岩城穆斎は『所口の賢人』と讃えられている。
文化年間(1804年~)までは塩屋宗家五郎兵衛家、それ以降は塩屋清五郎家の当主が代々所口町(七尾町)町年寄を代々つとめている。
塩屋清五郎は、江戸時代の七尾を語るにはなくてはならない存在である。しかし、明治時代以降、時代の変化の荒波の中で、塩屋の名は記録の上から姿を消してしまう。そして、現在。残念ながら塩屋一族の存在は、七尾市民の記憶からほぼ完全に消え去ってしまっている。
そこで、塩屋一族を顕彰すべく、今回採り上げてみた。

※煎海鼠(いりこ)‥‥能登のナマコは古代より特産品として知られる煎海鼠は、干鮑(ほしあわび)・鱶鰭(ふかひれ)と共に俵物三品として長崎貿易における中国への重要な輸出品であり、流通は幕府の規制を受けた。

 

上記の文章は常福寺の畠山浄(はたけやまきよし)さんが公開している『七尾古写真アーカイブ』のHPの中の『塩屋清五郎とその一族』のコーナーにある冒頭の紹介文を引用させてもらった。

 塩屋家跡

現在、一本杉通りの東の入口になっている仙対橋脇の中山薬局の場所は、江戸時代、俳人など能登有数の文化人を出した塩屋家跡であった。
この一族は、先祖は越前(福井県)より来た人で七尾に住着き、商売を始めた。その後、上記にあるよう京、大坂、江戸などの著名な学者とも交流があり江戸時代能登の文化をリードしていた。岩城泰蔵(岩城は塩屋(屋号)の姓)、岩城穆斉、岩城楽斎、岩城西陀、岩城木聖、大野長久など多くの人材を輩出した。
また海鼠を煎った煎海鼠(いりこ)で長崎まで出かけ、清朝の貿易するなど大商いしていたことは地元でもあまり知る人はいない。上記のブログではこの豪商にちなんで、一本杉通りの東の入口にあたる仙対橋が、昔は塩屋橋とも呼ばれていたことなども書かれている。

 

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明治初期の七尾を代表する商人・津田嘉一郎

北島屋茶店

一本杉通りにあり、登録有形文化財にも登録されている北島屋茶店(店主・一本杉町町会長・北林昌之)の建物は、もともとは明治37年頃、北前船の廻船問屋として活躍した津田嘉一郎の別宅として建てられたものである。
津田嘉一郎が頭角をあらわした明治初期その頃はまだ七尾港には五百石以上の帆船が百隻以上常時出入りしていた。これらの北前船は藩政時代と同じく、南は下関から北は新潟・秋田・松前の各地を往来し、米殻・清酒・建具・藁工品などを移出し、帰路は海産物を北陸地方へ運んだ。勿論、後には近代船も所有したようだ。
また津田嘉一郎は当時の七尾を代表する商人であったので銀行も経営していた。
七尾古写真アーカイブのHPには、明治初期頃のその銀行の写真も掲載されている。

また明治42年(1909)には、彼が中心になって11人の発起人による七尾電気株式会社を組織し、翌3月には創立総会を開き設立を見た。当初は火力発電で75kwの発電をして送電した。その頃電灯が点いたのは、七尾町、矢田郷村の一部、西湊村小島の一部で、5百戸に過ぎなかったという。機関に故障も多く非難が多く寄せられたとの記録も残っている。
それでも開明的な考えを持った事業家であった事は間違いない。

なお津田嘉一郎の生没年は、明確に確認できなかった。知っている方は教えていただけると有難い。 

 

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一本杉通りゆかりの芸術家・モダンアートの旗手 勝本冨士雄(1926~1984)

大正15年

勝本冨士雄生家

七尾市一本杉町生まれ
(生家は現在前田リフォーム店となっている)

昭和13年 戦時京都に出て、叔母の本屋に勤めるかたわら、京都市立絵画専門学校(現京都市絵画 専門学校)に学び、須田国太郎に師事するが中退。
戦後まもなく京都自由美術研究会で学ぶ
昭和25年 モダンアート協会創立に参加
昭和26年 第2回モダンアート展に招待出品  (同時に会員に推挙。以後、会の重鎮として活躍)
昭和28年 抽象と幻想展(国立近代美術館主催)に招待出品
昭和30年 日米抽象美術展(国立近代美術館主催)に招待出品
昭和36年 第2回パリ国際青年ビエンナーレ展(パリ近代美術館)に招待出品
昭和38年 第14回朝日秀作美術展に招待出品
昭和39年 第15回朝日秀作美術展に招待出品
第4回東京国際版画ビエンナーレ展(国立近代美術)に招待出品
昭和41年 第5回国立近代美術館コレクション展に出品、買上
昭和47年 日本現代美術展に招待出品
昭和52年 日本現代美術パノラマ展(セントラル美術館)に招待出品
昭和59年 4月26日東京にて死去

 

勝本冨士雄 生誕の家の碑

戦後の画壇において日本のモダンアートの有望な新進作家として活躍。一貫して抽象画を描き続け、晩年は幾何学的抽象、『鋭角シリーズ』に至った。また、ガラスモザイクによる壁画でも知られ、県内の公共施設に多くの作品が残っている。

特に金沢の県立美術館には氏が生前何点も贈呈し、また県立七尾美術館にも没後、何点も贈呈され、現在も所蔵されている。 

 

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七尾の名工 吉田屋喜兵衛

横川巴人さんの著書『夢』の中に、今回と同じタイトルの一節がある。よって元ネタはそこからである。
この名工・吉田屋喜兵衛は一本杉町に住んでいた。
巴人氏もこの名工の話は、当時(昭和29年7月)小丸山公園下に住んでいた一番上の姉から聞いたもので、巴人氏は興味を持ち、色々調べてみようとしたが、思わしい結果は得られなかったようだ。

 

巴人の姉の話によると、横川家(現在の二穴理容店向かい側、松本呉服店駐車場のあたり)の向い側、一本杉通りの山側の西よりに、二間口位の店屋で堂宮彫物(神社寺院山門の彫刻をやる人を一口に堂宮彫りといった)をやる吉田屋という家があったそうだ。巴人氏の言葉によると増屋毛糸店のあたりというのだが、調べたら‘ぬのや仏壇店’の駐車場の位置とわかった。

兄弟でやっていた店で、兄弟共に彫物師で「弟の文吉は後に愛宕山(近くの小丸山公園内の愛宕山)下に世帯を持ったが、仕事は兄の所でしていた。色白な中背の男で凝り性な職人気質の嗜(たしな)みもあった。兄の方は吉田屋とのみで名は知らないがその子に虎年生れのトラマというのがいて遊びに宅(巴人の家)へ来た。」

 

彫刻関係の家では、七尾では吉田一雋氏に始まる家系が有名だ。子孫からも吉田秀鳳氏、吉田雪山氏、吉田昇氏、吉田隆氏と多くの彫刻家を生んでいる。しかしどうもその吉田家とは血縁関係にないらしい。

巴人さんも、その吉田家の親戚かと思い、吉田一雋氏に直接聞いたそうだが、吉田一雋氏は「成程同業だが彫刻のところでは私が初代で家との縁故も全くない、しかし先輩から一本杉に吉田家という堂宮彫りの名人がいたという話は聞いており、どの辺にいたのかと思った。その人の作品は、気多本宮の御拝上の彫刻であるが、若い時から見飽きもせずに見に行ったものだ」という話だった。

 

それから以前同じ人の作品と思われる作品が、明願寺が今の七尾商工会議所の所にあった頃、その山門の扉に刻まれていたらしい。内容は※黄石公と張良の故事を刻んだものだったそうだ。明願寺は明治の30年代前半に国分に移転、ただし山門は明治35,6年頃まであったが、売られたそうだ(明治38年の大火で焼失したという説もあるらしい)。それで現在はどこかにまだあるのか、それとももう無いのか不明である。

気多本宮の拝殿

気多本宮(能登生国玉比古神社)の棟札では、本宮の拝殿は慶応元年から明治元年の足掛け4年の造営と知られるそうだ。資料が殆ど残っていない吉田屋喜兵衛だが、ただし戸籍だけは思いがけず残っていたらしい。「戸籍で見ると喜兵衛は慶応元年で31才である。・・・・慶応2年正月21日に父死亡に付同年3月10日相続す」と記録にあるそうだ。

巴人は続けてこう書く。
「棟札の慶応元年5月5日竜と特筆し作人吉田屋喜兵衛名を出し、右端に明治元年秋と神宮名を記したところに深甚の注意が払われているとみなければならぬ。
つまり明治元年の棟札で竜の作者は二年前に歿した先代喜兵衛の作であることをことわったものである。してみると吉田屋家職は彫刻師だが、名工喜兵衛は初代かどうだかわからぬ。
私の姉の話の吉田兄弟の兄は棟札にある麒麟の作者吉田喜三郎(前記31才)で(明治29年北海道小樽で62才で歿)弟の文吉は当時22才で棟札から逸している。
鳳凰の八幡喜助は弟子だろう。さて名工喜兵衛が歿した年令は戸籍になく妻のトキが文化11年生まれの喜兵衛歿年には52才だから5つ6つ年上か60才かと想像するのだが、本宮の竜は彼の心血を灑(そそ)いだ最後の作品だったのだ。」

巴人の文章は、想像すれば分かる内容は省略する癖があるので、ちょっと慣れないと読みにくいというか理解しにくい点もある。それでもじっくり読めば大体わかる。

気多本宮拝殿の龍の彫刻 アップ写真
この話の中では、先ほど述べた吉田一雋の他、同じく七尾が生んだ名彫刻家といってよい田中太郎氏の二人が、気多本宮の竜の浮き彫りを評して、名人芸だと絶賛している話も記されている。
その中から吉田一雋の評を少し抜粋すると
「自分は東京浅草観音の境内の経堂や上野の寛永寺、日光陽明門の竜などの名物を旅でも注意して見たが、堂もキャシャなものが多く神秘壮厳さがなく、本宮の吉田屋さんの竜は名人芸だと思った。」

現在、彼の他の作品が見当たらぬのは誠に残念と言わねばならない。

黄石公と張良について(Wikipediaの「黄石公」から引用)
 

黄石公(こうせきこう,生没年未詳)秦代中国の隠士。張良に兵書を与えたという伝説で名高い。
張良が始皇帝を暗殺しようとして失敗し下邳に身を隠していたある時、一人の老人と出会う。老人は沓を橋の下に落として、袂を歩いていた張良に「拾え」と命じ、張良は怒らずそれに従った。老人は一度は笑って去ったが、後に戻ってきて五日後の朝に再会を約束した。
五日後、先に来て待っていた老人は、日が昇ってから現れた張良に「目上の者との約束をしておきながら遅れてくるとは何事か」と、また五日後に会う約束をする。張良は次の五日後、日の昇ると同時に約束の場所へ行ったものの、老人は既に来ていて以前と同じことを言う。三度目には日の昇る前に行くと老人は後から来て、「その謙虚さこそが宝である」と言い、張良に「太公望兵書(六韜)」を与え、「この書を読み10年後には王者の軍師となるだろう」と告げる。さらに「13年後にまた逢おう。済北の穀城(山東省東阿県)の下にある黄色い石が私である」とも。黄石公の予言はすべて的中し、張良は、穀城の黄石を得て、これを祀ったという。
黄石公は太公望と伴に兵法の祖として仰がれ、その名を冠した兵法書の種類は多く、中でも『三略』が有名である。

 

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彫刻家・田中太郎 (1911~1992)

田中太郎氏は、一本杉町ではないが、一本杉通りの旧北國西支店横の路地をほんのちょっと進んだところにある場所で生まれたので採り上げた。

明治44年 七尾市木町に生まれる
大正15年 七尾男子校高等科卒 建築彫刻を習う
昭和9年 上京し彫刻家・平櫛田中に師事し入門
昭和11年 院展初入選以後出品
昭和24年 「蛍の光」日本美術院 白寿賞
昭和25年 「三面相」奨励賞
昭和26年 日本美術院賞 白寿賞
昭和27年 法隆寺金堂復元に従事。修建責任者であり院展の重鎮でもあった石井鶴三の求めにより、雲形肘木や雲斗の修理に参加するなど、その実力は高く評価された。
昭和28年 七尾市文化賞
昭和29年 「K子像」 日本美術院賞 大観賞
昭和30年 日本美術院同人
昭和33年 我孫子市に移住
昭和34年 東京芸大に「ないしょ話」を寄贈
昭和39年 紺綬褒章 木杯賜る
昭和58年 石川県立美術館に買い上げ・寄贈
昭和60年 国際芸術文化賞 太平洋美術会会員
昭和63年 七尾産業福祉センターで個展

「お茶の北島屋」のブログの記事をほぼ転記
北島屋ブログには「「等伯」 等伯会誌第10号より」とある。

 

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立命館大学創立者・中川小十郎が一時住んだ町、一本杉町

 中川小十郎肖像写真  この中川小十郎氏(1866~1944)が一本杉町にやってきた経緯は次の通りである。

明治10年頃、当時御祓川の長生橋たもとにあった浄土真宗大谷派七尾教務所(現在は小丸山大通りにある能登教務所)に、佐賀県生まれの医師・田上綽という先生が経書や詩文を教えるためにやってきていた。田上氏は、山雪と号し、湖南の号も用いた。草場佩川派の学者で画の楽しみもあり、通な文人肌な人であったらしい。

教務所では、田上氏を中心に詩会の催しもなされたようだ。横川巴人の父親・横川仲蔵(俳号は春水)も、医師であり文化人でもあった。それで横川仲蔵氏が田上氏に病気手当を頼んだのを契機に詩文などを語り合う仲間となったらしい。

この田上氏には学僕ともいえる十数歳の少年2人が同行していた。その中の1人が、若き日の中川小十郎氏(当時14歳)だった。仮住まいにしていた所は、一本杉町の船城甚右衛門方で、船城氏は酢・味噌・醤油の醸造を家業としていたらしい。文人タイプの人柄で能登や金沢の旧家と付き合いがあり、書画の売買の世話もしていたという。そんな世話好きな性格から中川氏を預かったのではなかろうか。

中川氏が七尾にいた期間は、はっきりしないが、この元ネタが書かれている「七尾の地方史」を読むと、そんなに短くもないらしい。1年ほど住んでいたようだ。
この船城家が現在の何処に当たるかだが、調査の結果、船城甚右衛門の家は現在のミズカミ呉服店から旧オオタ無線の建物までの間と分った。

 

昭和10年代のはじめ頃、中川小十郎翁の晩年に、一度横川巴人氏は京都の中川邸を訪問した。その際、中川氏は文箱に入れた師・田上先生の文稿を持って一本杉の横川宅へ度々使いに言ったものだと七尾時代を回想したという。

また後に中川小十郎氏から横川巴人氏に手紙が送られてきたという。手紙には、
「昔年ノコトドモ追憶感無量ニ存ジ候。当時私等ノ寄寓致セシ家ハ一本杉町ノ船城甚右衛門ト申ス仁ノ家ニ候。小生当時十四歳ノ少年ニ候。今日尚昨日ノ様ニ思ハレ候。貴賢姉殿ニモ宜敷(よろしく)オ伝ヘ下サレ度候(たくそうろう)。本日手許有合ハセノ人形ヲ貴宅宛ニテ差シ出シ申候(もうしそうろう)。貴姉ヘお届ケ下サレ度候。」とある。

文中の貴姉殿とあるのは、巴人の異父姉の中村多仁という女性で、多仁は横川家から、明治の七尾の漢学者・中村立軒の息子に嫁いだそうだ。七尾教務所の少年ら二人と多仁少女とは隠れん坊などしていた遊び友達だったそうだ。その他にも船城甚右衛門の姪だった「のっぽのおよねさん」と渾名(あだな)された娘も当時の中川氏の遊び仲間だったらしい。

小十郎の晩年になってからも、二人の女性や巴人のもとに、七尾を懐かしむ手紙などを送ってきたそうだ。
詳しい事を知りたい方は、もし七尾市内の方なら、この記事の下記の元ネタにあたる本(七尾市立中央図書館所蔵)に書いてありますから、そちらを読んでもらいたい。
【参 考】
「七尾の地方史」第23号(平成元年11月)(「七尾地方史の会」発行)
中川小十郎と七尾の女性 (横川敬雄)  P34~36

 

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俳人・画家 茶谷霞畝(ちゃたに かほう)(1882-1970)

現在、鳥居醤油店となっている家の前に立つ茶谷霞畝寓居跡の石碑 茶谷霞畝、本名は木谷善蔵。霞畝は画人としての号で、他に竜杖という俳人としての号も持ちます。彼は、明治15年鹿島町久江に生まれ、明治30年(七尾市)松本町の素封家・茶谷てる家に婿養子として入り、妻に死別後、東京で日本画家・(※1)荒木十畝の入門。師の一字を許され、霞畝(かほう)と号したそうです。
霞畝は放浪するかのように住居をあちこち転居させたが、晩年七尾に戻ってきて、この鳥居醤油店の家の奥の建物の場所が霞畝の寓居であったという。

鳥居家の先代が、七尾のパトロンのような立場にあったことも関係しているようだ。
小丸山公園第1公園の光徳寺裏から続く長い坂を登りきった右側に自然石に刻みつけられた句碑があります。

草書体なので読みにくいですが、茶谷竜杖の句碑
 有る様でなく
無いようである 水の月
花本十三世 竜杖  
と刻字してあります。これは木谷善蔵こと竜杖の句碑です。
俳句は、「花ノ本」派宗匠で京都の俳人・(※2)上田聴秋宗家(花本十一世)に入門し学びました。
昭和5年に最高位の柿本宗匠の免許を得て、昭和17年に花本十三世を継承した。
こちら俳句の方では、竜杖と号した。
昭和18年に勅願俳句の選者に推薦された。
昭和32年、七尾市文化賞受賞。

石川県の俳句は、加賀においては芭蕉が訪れたこともあり全国的に隆盛した蕉風の俳句が親しまれたのに対して、七尾においては江戸期以来明治末期にいたるまで、貞門派(松永貞徳が創始)や談林派(西山宗因が創始)などの(※3)宗匠俳諧の栄えた土地柄であった。これに対して明治末頃から七尾の俳人・三野免歌子の新傾向俳句の活動が始まり、大正末期には(※4)新傾向俳句に走る者もあったが、大勢は龍杖などの旧派宗匠俳句が盛んで、花ノ本派は大いに活動した。

茶谷霞畝 横顔 写真の句碑は、七尾俳壇の重鎮・吉村春潮、勝本柏宇の両氏の奔走で、竜杖の足跡を記念し「句碑建設会」を作り、(七尾市の灘浦方面に流れ下る)熊野川上流から自然石を経て、昭和32年8月建碑された。

多芸な人物で日本画・俳句の他にも色々物した。
書道は日本三名筆の玉木愛石に師事、尺八は都山流を学び、華道は遠州流の奥義を極めて夢想流の一派を樹立した。
書画・俳諧をもって全国を行脚し、昭和45年に91歳の天寿を全うした。

【註 記】
(※1)荒木 十畝(あらき‐じっぽ) (1872~1944)
日本画家。長崎の生まれ。荒木寛畝(かんぽ)に学び、のち養子となる。文展・帝展で活躍した旧派系の代表的画家。代表作「寂光」。
(※2)上田 聴秋(うえだ ちょうしゅう)(1852~1932)
岐阜県・大垣生れの俳人で京都に居した。八木芹舎門の旧派の大御所俳人で、点取俳諧の宗匠として関西で活躍した。著書に『俳諧鴨東集』があり、『明治俳諧金玉集』の跋も記している。本名は肇、号は不識庵、花の本11世。
(※3)宗匠俳句 
義太夫節や清元と同じく有名な宗匠から学んで月謝を払うお金持ちの道楽でした。
(※4) 新傾向俳句 
正岡子規の没後、大須賀乙字(おおすがおつじ)の論文「新俳句界の新傾向」に端を発し、河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)らが明治40年代に流行させた俳句。定型を破り、季題趣味から脱して、生活的、心理描写的なものを追求。のち、自由律俳句へと展開。(『大辞林』より引用)

【参 考】

 一本杉通りかわら版「茶谷霞畝の資料多数入手」(H22.4.21の記事)
『石川県鹿島町史 資料編(続)下巻』P1153~1154
『七尾歴史散歩百選 新七尾風土記』P99~P100
『図説 七尾の歴史と文化』P148
など

 

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世界的パティシエ・辻口博啓(つじぐちひろのぶ) (1967~ )

1967年、七尾市馬出(まだし)町の和菓子屋の長男として生まれる。tuji_img.jpg
18才の頃より都内のフランス菓子店及びフランスのラングドック地方、セット市のMOFであるパティスリーベルタンで修行を重ねる。5度の世界大会に日本代表として出場し、優勝経験を持つ。
モンサンクレールをはじめ、コンセプトの異なる10ブランドを次々と展開している。各店舗の製造・運営の傍ら、各企業とのコラボレーションやプロデュース、講演やテレビ出演、著書出版など幅広く活躍中。

(略 歴)
1967  石川県七尾市生まれ     
1990  「全国洋菓子技術コンクール」 優勝     
1992  「50周年記念全国洋菓子コンクール」 総合優勝     
1993  「東日本洋菓子コンクール マジパン部門」 優勝      
1994  「コンクール・シャルル・プルースト」 銀メダル受賞     
1995  「クープ・ド・フランス インターナショナル杯」 優勝     
1996  「ジャンマリーシブナレル杯」 3位受賞      
1996  「ソペクサ(仏大使館主催仏食材を使ったプロの為の仏菓子コンクール)」優勝     
1997  「クープ・ド・モンド(ワールドカップ)」 個人優勝

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開店準備の為,半年間、南仏の「パティスリー・ベルタン」へ。      
1998  自由が丘に「モンサンクレール」オープン。
シェフパティシエに。      
1999  フジテレビ「料理の鉄人」でパティシエ初の優勝      
2000  ガストロノミックの会モンタニエよりシュバリエを受賞
料理オリンピック イタリア代表としてドイツに招かれる。
これによりイタリア鉄人協会会員となる。      
2002  自由が丘に「自由が丘ロール屋」オープン      
2002  「ヘーゼルナッツ国際大会」 総合優勝      

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2003  六本木ヒルズに「ル ショコラ ドゥ アッシュ」オープン      
2004  玉川高島屋に「和楽紅屋」オープン    
2005  世田谷区駒沢公園近隣にブーランジェリー・パティスリー「マリアージュ ドゥ ファリーヌ」、コンフィチュール専門店「コンフィチュール アッシュ」オープン      
2005  品川駅構内 ecute品川に「和楽紅屋」オープン      
2006  石川県和倉温泉 辻口博啓美術館「ル ミュゼ ドゥ アッシュ」開館

2007   名古屋に「フォルテシモ アッシュ」オープン  

2008年 石川県立金沢美術館内に「ル ミュゼ ド アッシュKANAZAWA」OPEN

2010年 ecute東京に和スイーツ専門店「和楽紅屋」OPEN

西武池袋に和スイーツ専門店「和楽紅屋」OPEN

2011年 新千歳空港に「北海道牛乳カステラ」OPEN

自由が丘に豆スイーツ専門店「Feve(フェーヴ)」OPEN

スーパースイーツスクール自由が丘校 開校 校長就任

一般社団法人日本スイーツ協会 設立 代表理事就任

ecute上野に和スイーツ専門店「和楽紅屋」OPEN

高島屋玉川に豆スイーツ専門店「Feve(フェーヴ)」OPEN

「辻口茶園」商品販売開始

2012年 石川県金沢市に「スーパースイーツ製菓専門学校」開校 校長就任

渋谷ヒカリエShinQsに豆スイーツ専門店「Feve(フェーヴ)」、

ショコラトリー「ル ショコラ ドゥ アッシュ」OPEN

東京スカイツリータウン・ソラマチに和スイーツ専門店「和楽紅屋」・

豆スイーツ専門店「Feve(フェーヴ)」OPEN

三重県菰野町に「AQUA×IGNIS(アクアイグニス)」OPEN

AQUA×IGNIS内にブーランジェリー・パティスリー「マリアージュ ドゥ ファリーヌ」

コンフィチュール専門店「コンフィチュール アッシュ」をリニューアルオープン

ルミネ北千住に豆スイーツ専門店「Feve(フェーヴ)」OPEN

2013年 石川県香林坊スーパースイーツ製菓専門学校の別科「アトリオ」開校

atre品川に豆スイーツ専門店「Feve(フェーヴ)」OPEN

パリで行われる世界最大のショコラの祭典「SALON DU CHOCOLAT(サロン・デュ・ショコラ)」にて最高位「5タブレット+★」を受賞

長崎県佐世保市に「アトリエ アッシュ」OPEN

2014年 「H CHOCOLAT SUPPLEMENT」販売開始

東京都麻布十番に「和楽紅屋 麻布十番本店」OPEN

渋谷ヒカリエShinQsに「和楽紅屋」OPEN

(以上の記事は、㈱アーシュ・ツジグチのオフィシャル・サイトのプロフィールの記事を、転載許可をもらった上で載せております) 

 

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七尾市馬出町出身の作家・藤澤清造 (1889~1932)

生れたのは、明治22年(1889)で鹿島郡藤橋村。現在の七尾市馬出(まだし)町である。

 一本杉通りから歩いて数分の場所である。

NedugongenUra.jpg 18歳の頃文筆家を志し、姉を頼って上京。印刷屋、製本所、新聞配達、製綿所、弁護士書生などを様々な職業を経験したが、間もなく俳優を志望するも叶わず悶々としていた。

やがて、同郷(馬出町)の作家志望の安野助多郎によって徳田秋声や室生犀星と知り合う。
徳田秋声の紹介で三島霜川が編集主任をしていた演芸画報社に入社、訪問記者となり、10年間の演劇記者時代を送った。そして仕事をしながら、小山内薫に私淑し劇評も書いた。
画報社を退社後は、小山内の紹介で松竹キネマやプラトン社に勤務するが長続きしなかった。

大正11年(1922)大阪に移って書いた、友人・安野助太郎の悲惨な死をテーマとした長編小説「根津権現裏」の出版によって文壇に登場。

ところでその安野だが、彼は金沢生まれで、若い頃は兄と一緒に七尾へ移住し兄は馬出町で理髪業をやり、弟は裁判所の給仕などをやっていた。藤沢とはその時知り合ったようだ。安野は上京後、弁護士の事務員書生などやっていた。

この安野助太郎と藤沢清造と、それに室生犀星の3人は親しく東京でもよく交わったという。安野が亡くなったのは斉藤茂吉の脳病院の便所で縊死を遂げた変死だった。

この事件を題材にして、藤沢は、「根津権現裏」を書いたのだが、その後は『新潮』『文芸春秋』『文芸往来』などに小説戯曲を発表。彼の作品は、もっぱら人間の醜悪な面、悲惨な面を描き続けた。晩年になるにつれて無政府主義的傾向が強くなっていったという。

上記のように劇評や戯曲により一時は「演劇界」で活躍したが、寡作のために生活に困窮。
貧乏にも関わらず頻繁に悪所通いなど生活は乱れ、昭和6年(1931)5月の『文芸春秋』で「此処にも皮肉がある」を最後に文筆を絶った。

悪疾の精神障害(どうも悪所通いが原因らしい)をきたし、何度も失踪を繰り返したという。翌年の昭和7年1月29日、行き倒れとなって東京芝公園で凍死した。享年42歳。
発見当初は手がかりがなく、行路病死人として扱われ火葬されたが、靴に打った本郷警察署の焼印が放送局の久保田万太郎氏の耳に入り、藤沢であると確認された。

小説家としては、『根津権現裏』が唯一の単行本であるが、大正期の人生派文学の作家と位置づけられる。
横川巴人(七尾市一本杉町出身)は、この作品に大しても結構酷評で「内容もひどく藤沢の性癖から出た文脈で、一口に言えば自然派風の私小説というものだから、広く読まれる通俗性がなかったともいえる。」などと書いている。

藤沢清造は、一般には有名ではないが、文壇で「ダラ言葉」を流行らせたり、文壇の著名人を誰彼問わず訪ね周り、当時文壇では一種名物男であったという。
交友した者の中には、郷土を同じくする室生犀星、徳田秋声、尾山篤二郎(金沢出身の歌人・国学者)、横川巴人の他に、北原白秋、今東光、久保田万太郎など著名な作家なども沢山いたようだ。

だがその一生は極貧の人生でもあった。彼の極貧の生活の有り様は、横川巴人の『夢』などにも書かれている。

昭和28年(1953)7月最初の追悼法要が西光寺で営まれた。墓標は質素な木でできたもので、尾山篤二郎が書き、吉田秀鳳(七尾市出身の彫刻家)が刻って有志の手で行われたそうだ。亡くなってから21年経っての法要であった。

2006年、清造研究家で作家の西村賢太氏の自伝的小説『どうで死ぬ身の一踊り』が、第134回芥川賞の候補作に選ばれるが惜しくも受賞を逃したが、同氏は2010年に『苦役列車』で見事第144回芥川賞受賞をした。

また西村氏は、藤澤清造の全集の編集も個人的に進めており、その激烈な私小説『どうで・・・』の中で、主人公に繰り返し強い共感を語らせてきた。
この西村氏のお陰で久々に「知られざる作家」藤沢清造の生涯に注目が集まった感がある。
西村氏が平成13年(2001)に復活させた清造忌の法要以後、毎年西光寺で清造忌は行われるようになったようだ。

《参考図書》
横川巴人『夢』(横川巴人会 昭和44年11月発行)
『石川県大百科事典』(北國出版社)  他ネット検索など

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昭和初期に活躍した七尾出身の詩人・鷹樹英弘(1894~1936)

鷹樹英弘 一本杉通り出身の人物ではないが、一本杉通りより1本だけ山側の町・亀山町出身ということで、採り上げてみることにした。
最近、私は地元の「ちょんこ山保存会」の調査部の委員ということで、また「館報みそぎ」(御祓公民館)の「七尾市クイズ」の執筆担当として色々地元に関する古い雑誌や資料などを暇を見て読んでいる。ちょんこ山とは七尾旧市街地の西側・御祓地区を曳山で練り行く地元の春祭りである。
幾つか前の記事の茶谷霞畝のネタも、実はちょんこ山保存会の調べごとをしていて見つけたものを利用した。

今回載っていたのは「能登‘69.7」(能登往来社発行・能登第3号)の中のこれまた七尾出身の詩人・文人である相川龍春(相澤道郎というペンネームでも活躍)が鷹樹英弘について記した記事である。相川龍春も同じ早稲田大学出身で鷹樹の後輩に当たり、年齢もよく似て、ともに詩をよく作った同郷の二人は、早稲田大学内でも顔を会わせる事が多く、よく付き合っていたそうだ。そういう関係もあり、鷹樹氏の記事を書いたようだ。

さて本題。鷹樹英弘だが、本名は高木秀博、明治44年5月11日生まれ。生家跡は、亀山町25番地とあるから現在の真舘米穀物商店と大野木邸の間の家の位置になる。
県庁努めの延次郎の長男として亀山町に生まれたが、幼い頃、その父親の金沢への転勤に従い彼も金沢へ移ったらしい。
大正13年3月金沢市立新竪町小学校卒業、同年4月石川県立金沢第一中学校入学、三年の時、次弟とともに遠く朝鮮に旅行したこともあるという。異郷風物は、夙(つと)に文学への芽を蘇生したようだと、相川龍春は書いている。その辺りの事情を本人から聞いていたのかもしれない。

昭和4年3月同校卒業、厳父に伴われ宮崎、新潟を転々とする。昭和6年4月、早稲田第二高等学院文科へ入学。昭和8年4月早稲田大学文学部英文科に進む。
そして「早稲田英文学」の編集に従事していたようだ。
さらに文学にて志を立てんとする気持ちが強く、雑誌「記録」の同人となり、「迎蛆行」「夜明け前」「血」「扉の音」の4篇の詩篇のほかに、小説なども発表したようだ。
翌昭和9年「早稲田文科」に移り、その年行った台湾旅行を基に「米袋を縫ふ女」「西門市場」「果樹園の葡萄」「亡命の歌」「湖畔の蕃地」を発表した。合わせて9篇が豪華版詩集『蛆』(1935)となって刊行された。「強烈な批評意識が全篇を貫く」本だそうである。1936年、卒業と共に病が革(あらた)り急逝。
私はまだ見ていないが、相川龍春の『わが心の七尾の詩人』(能登印刷・1983)にも詳しいことが書かれているそうだ。

 ≪参考図書≫ 「能登‘69.7」(能登往来社発行・能登第3号)

能登・七尾一本杉通り

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