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江戸時代能登有数の文化人を多く輩出した豪商・塩屋家跡

ゆかりの芸術家・有名人 | 2009年4月24日

江戸時代能登有数の文化人を多く輩出した豪商・塩屋家跡

 「江戸時代、七尾に岩城姓を名乗る塩屋という商人の一族が存在した。この一族は江戸時代を通して町年寄など町の重職を歴任して七尾の町を支え、また、数多くの俳人を輩出して文化・学芸面でも多大な貢献をした。

豪商塩屋家跡・現中山薬局
 塩屋一族の中でも特に塩屋清五郎家は、七尾湾周辺の煎海鼠(いりこ)を一手に扱う幕府の御用商人として活躍し、また京の儒者皆川淇園や頼山陽など当時一流の文化人らと深い交友関係を持っていたことで知られる。三代清五郎こと岩城穆斎は『所口の賢人』と讃えられている。

 文化年間(1804年~)までは塩屋宗家五郎兵衛家、それ以降は塩屋清五郎家の当主が代々所口町(七尾町)町年寄を代々つとめている。

 塩屋清五郎は、江戸時代の七尾を語るにはなくてはならない存在である。しかし、明治時代以降、時代の変化の荒波の中で、塩屋の名は記録の上から姿を消してしまう。そして、現在。残念ながら塩屋一族の存在は、七尾市民の記憶からほぼ完全に消え去ってしまっている。
 そこで、塩屋一族を顕彰すべ・・・・

※煎海鼠(いりこ)‥‥能登のナマコは古代より特産品として知られる煎海鼠は、干鮑(ほしあわび)・鱶鰭(ふかひれ)と共に俵物三品として長崎貿易における中国への重要な輸出品であり、流通は幕府の規制を受けた。」

 上記の文章は常福寺の畠山浄(はたけやまきよし)さんが公開している「七尾古写真アーカイブ」のHPの中の「塩屋清五郎とその一族」のコーナーにある冒頭の紹介文を引用させてもらった。

 現在、一本杉通りの東の入口になっている仙対橋脇の中山薬局の場所は、江戸時代、俳人など能登有数の文化人を出した塩屋家跡であった。
 
この一族は、先祖は越前(福井県)より来た人で七尾に住着き、商売を始めた。その後、上記にあるよう京、大坂、江戸などの著名な学者とも交流があり江戸時代能登の文化をリードしていた。岩城泰蔵(岩城は塩屋(屋号)の姓)、岩城穆斉、岩城楽斎、岩城西陀、岩城木聖、大野長久など多くの人材を輩出した。

 また海鼠を煎った煎海鼠(いりこ)で長崎まで出かけ、清朝の貿易するなど大商いしていたことは地元でもあまり知る人はいない。上記のブログではこの豪商にちなんで、一本杉通りの東の入口にあたる仙対橋が、昔は塩屋橋とも呼ばれていたことなども書かれている。

 地元に住む者には、この「塩屋清五郎とその一族」のコーナーは非常に興味深い頁である。関心のある方は、上記の太字のリンク部分をクリックして進んでほしい。

 

 



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